かりんとうをwikipediaで調べると、和菓子だと書いてある。そうか和菓子かと思ってかりんとうを思い浮かべてみると、なぜだか和菓子だと思うには違和感がある。
柿の種は和菓子だ。違和感はない。では今川焼きは?和菓子でしょう。せんべいは?これはもう和菓子で間違いない。
そこでもう一度かりんとうへ戻ってくると、なんとなくさっきより違和感が大きくなった気がする。本当にかりんとうは和菓子なんだろうか。
さらに、かりんとうにはその出自以外にもう一つ謎がある。
昨年東北地方を1週間かけてぐるっと巡った際、一番衝撃的だったのはかりんとうの形が地域によって異なることだった。
何を言っているんだ、かりんとうは短い棒状で黒糖蜜が染み込んだやつだろうと思ったあなたは中部地方出身。
ばがか、かりんとうは三角で薄っぺらい短冊状だべと思ったあなたは東北(秋田)出身。
ちゃうねん、かりんとはベーゴマみたいな渦巻きやねんと思ったあなたは関西出身。
このようにダーウィンフィンチ類のごとく全国で様々な形に独自に進化発展したかりんとうは、その名前の由来からいつ日本に入ってきたのか、はたまた日本生まれなのかどうか、よくわからない。
出自がよくわからないのに、確かに存在するかりんとうというお菓子。謎。
『事典和菓子の世界』中山圭子著を紐解くと、かりんとうの説明として
「小麦粉に 水飴などを 混ぜてこね、油で揚げて 蜜がけした菓子」
とある。みごと、5・7・5・7・7音でまとめられた美しい説明だな。などと余計なことを考えつつ先を読んでみると、「小麦粉を生地として油で揚げる製法からは唐菓子が連想されるが、同じ名前のものは見つかっていない」「金平糖と同類に見えるが、南蛮菓子としての記録はない」とある。
現在の日本の和菓子に影響を与えた舶来の菓子としては、唐菓子(とうがし、もしくはからくだもの)と南蛮菓子(なんばんがし)とがよく知られている。
唐菓子は飛鳥時代のころに遣唐使が日本に伝え、南蛮菓子は戦国時代以降にスペインやオランダから持ち込まれた。それぞれもともと独自に発展していた日本古来の菓子(もち・だんご等)と融合を重ねて、また鎌倉や江戸の文化にも影響を受けながら現在の和菓子は進化してきたとされている。
どうもかりんとうの起源としては、唐菓子が怪しいなと個人的ににらんでいる。というのも奈良県に、飛鳥時代に日本に伝わった唐果物の一つ、「ぶと」があるからだ。「ぶと」とは「米粉を練って揚げた餃子のような形」のお菓子で、「春日大社では神様のためにぶとをつくり、祭事ごとに供え」る。
これがかりんとうの源流なのではないかと、なんとなく想像してみる。
「ぶと」のようなお菓子はより安価な小麦粉へと原料を変えられながら、手軽に作れる!とお菓子として評判になって近畿圏を中心に広まり、江戸時代になって関東地方へ、そして叩いて伸ばされたり細かくちょん切られたりしながら東北へと流通するようになっていったのではないだろうか。だから近畿から中部にかけてのかりんとうは甘いのに、東北のかりんとうは味付けに醤油を使ってみたり、ゴマをまぶしてみたりとアレンジが(これでもかとばかりに)加えられているのではないだろうか。
そういえば、秋田には唐辛子を味付けに使用したピリ辛のかりんとうもあり、甘いかりんとうしか知らない中部地方出身者としては驚きだった。唐からやってきた菓子が姿形を変えられながら同胞と長い年月(どれくらいかはわからないけれど)を隔てて異国の地で再会したような感じだろうか。
そういえばかりんとうの名前の由来はわからなかったけれど、もしもその食べる時の音が由来なんだとしたら、バリントウやパリントウにならなくて良かったと思う。それでは少しワイルドだったりポップに過ぎる。やはりカリントウがしっくりくるなと思う。
個人的には、かりんとう本体よりも、たまにある黒蜜が固まっているところを齧ると、何とも言えない小さな幸せを感じる。
と、ここまで書いてふと心配になって一応調べて見ると、なんと唐辛子は唐の時代に中国から入ってきたものではなく、もっとも古いとされる説では1552年もしくは1542年(戦国時代)にポルトガル人が日本に伝えたとされている。当時の呼び名は南蛮胡椒。唐辛子の唐は単に外国からきたものを表すそう。
秋田の地で同郷の友と再会したのかとしみじみしていたら、なんと異国からはるばるやってきたもの同士の運命的な出会いだったというロマンチックなオチ。何でも調べてみるもんですな。
参考文献
『事典和菓子の世界』中山圭子 岩波書店
『都道府県の特産品 お菓子編』都道府県の特産品編集室 理論社
『南蛮から来た食文化』江後迪子 弦書房
『トウガラシの世界史』山本紀夫 中公新書